ボディメイクバカ一代

そのワンレップに「愛」を込めて

私が初めてボディメイクと出合ったときの話

私が筋トレに出合ったのは高校生のときである。

全寮制の男子校に入学。学校に隣接した寮に入寮して2日目くらいのことだった。

初日に顔見知った先輩から声をかけられて、ついて行った先は相撲部の練習であった。

(相撲の練習と言えば、通常、土俵の上で行うものだが、当時学校の土俵は「工事中」とのことで、相撲部員たちは体育館の片隅を間借りしていた。バレー部やバスケ部の横で、上半身裸の少年たちが集まっている光景は異様であった)

相撲といえば、肥満体型の巨体をイメージするかもしれないが、私がついて行った先に待っていた先輩たちは一様に細身でありながら、とても引き締まった体をしていて、腹筋などは「シックスパック」であった。

当時は現代のようにSNSなど存在もしなかったので、マッチョを目にする機会はせいぜい漫画か映画のフィクションの世界だけであり、目の前にいるリアルマッチョ少年たちの肉体に私は非常に驚いた。

私は「相撲部に入部したい」など一言も言っていなかったが、なぜか練習に参加することとなり、その筋肉少年たちと円陣を組んでシコを踏み始めた。

それが終わると、土俵がないからとのことで「練習は筋トレのみ」と。

中学時代、私はその線の細さから「もやし」と呼ばれていた。

筋トレなど、ろくにしたこともなかったため、次々と課される腕立て、腹筋、背筋、スクワットに、全然ついていくことができなかった。

中でも腕立ては効いた。

私は特に上半身の力が弱かったようで、練習後、1週間くらい上腕三頭筋と胸の筋肉痛が治まらなかった。

また私は当時、筋トレの知識もほとんどなかったから、腕立てというだけあって、これは腕の筋肉を強化するものだと思っていた。

しかし、実際は胸に強い筋肉痛がきて、まるで腫れ上がったかのような様相をみせた。

たった1回の激しい筋トレで、自分の体に大きな変化が起きたことに私はハマり、その日以後、毎日10回でいいから腕立てを続けることを自分に課した。

そして、その回数は30回、50回、100回と増していき、2年に上がった頃は、毎日300回程度は行うようになっていた。

その頃になると、当初10回の腕立て伏せでも苦戦していたのが、100回程度なら難なく行えるようになり、体つきも大きく変わった。

張り出した胸の筋肉。腕の太さも当初の2倍くらいに太くなっていたように感じ、同輩からも「初めてあったときはすげー腕の細え人だと思ったけど、今じゃすごいな」と言われるまでになっていた。

恥ずかしい話だが、当時の私は鏡で自分の体を見ることが趣味になっていた。

中学時代まではまるでもやしのようなヒョロガリだった自分が、筋肉質な体型に変わったことで、特に男の子などはそうだと思うが、潜在的に「強さ」へのあこがれがあるものだから、強くなった自分の姿が大きな自信を与えてくれたのだった。

私は次第に筋トレのことしか考えなくなり、勉強も一応入部した相撲部もそっちのけで、毎日ひたすらただただ腕立て伏せを行った。

そして、3年に上がった頃には「昭和の大横綱千代の富士は毎日500回腕立てをしていた」という情報を耳にしたことから、自分もそれをしようと毎日500回の腕立てを自分自身に課すようになった。

あまりに過酷な回数だったため、日中から「今日も帰ったら500回やらなきゃいけないのか…」と憂鬱な気分が襲ってくることもあったが、やり終えたあとの達成感は素晴らしく、受験勉強もそっちのけで、ただひたすら腕立て伏せに捧げる生活であった。

今から思えば、筋肥大に対する知識が少なすぎて、休養を取ることの大切さやプロテインなどのサプリメンテーションも全く行っていなかったことから、本来であればもっと身体を発達させることができたであろうが、そんなことはお構いなく、ひたすら筋肉の破壊活動を行っていたことが残念である。

そして、受験勉強も当然失敗し、高校卒業後、2年間浪人生活を送ることになった。

浪人中も私はこの習慣を続け、さらに大学を卒業するまで続いた。

大学卒業後、様々な思考の変化から私は強靭な肉体を作ることに対して価値を見失い、その後20年近くにわたり筋トレを断ってしまうことになるのだが、何も誇ることのなかった私の若かりし時代にとって、ひたすら腕立て伏せを続けたことだけが、揺るがなく築き上げた何物かではある。

これが、私とボディメイクとの最初の出合いであった。