ブログで書きたいこととというのは、意外にあるようでない。
そこで、他人が設定してくれた「お題」なるものを検索してみることにした。
すると、表題のお題を設定してくれた方がいらっしゃった。
見た瞬間、これは
自分が書かなきゃだれが書く
というタイトルだと、ピンときた。
なにを隠そう、
私は受験に3度も失敗
している。
内訳は、高校受験1回、大学受験2回、の計3回。
3浪しました、というのは、医学部志望者でもない限り、そうそういないと思う。
年の瀬は40をとうに越し、20年以上も前の古傷をいまさらえぐり返す必要もないのだが、久しぶりに当時の苦い体験について振り返ってみようかと思う。
私の両親はいわゆる「教育熱心」というやつだった。
人よりも家畜の数の方が多いというド田舎で、「自分の子を将来有名大学に入れたい」と考える親など皆無な中で、幼い頃から塾に通わせられたりした。
ありがたいと言えばありがたかったのかもしれないが、一方で、勉強しなかったり成績が悪かったりすると、普通にグーパンで殴られたり、蔵に閉じ込めようとされたり、現代なら児童相談所の介入を招きかねないリスキーな教育方針のもとで育った。
そこに来て、私は大の勉強嫌いときている。
当然、力づくで私に勉強させたところで、さほどの成果は出ず、両親もやるせなかったのではないかと思う。
私は親から、物心ついたときから、地元から離れた有名私立高校に入学することを勧められていた。
幼い私は、親が何を言っているのか理解していなかったが、長年「洗脳」されつづけたことで、自分は高校生になったらそこに行くのだと、いつしか思い込むようになっていた。
中学3年になり、さすがのド田舎でも受験という単語がちらほら聞こえ始めた。
周囲の大半は地元のFランか農業高校に行くのがコースで、多少デキのいいのは、となり地元の進学校と呼ばれるところに行く感じ(進学校と言っても所詮田舎の進学校なのでたかが知れている)。
そんな中、地元を離れたガチの進学校である有名私立に行くなどと言っていた私は、奇人変人の類とみなされていたと思う。
実際、有名私立を受験するも、言うまでもなく不合格。
みなからの失笑を買った。
そして、となり地元の進学校にはかろうじてひっかかったものの、
「俺はそんなところには行かない、もう1年がんばって有名私立に行く」
と言ったら、中学の校長から呼び出しをくらい
「高校受験に合格して、そこを蹴るなど前代未聞だ。お前のようなやつはゆるされない。どうしてもそうするというのであれば、合格した高校に赴いて謝罪してこい」
ということをオブラートに包みながら言われた。
合格した高校に行くか行かないかなど、はっきり言ってそれは本人の自由なのだが、いかんせん、閉鎖的で封建的な田舎のことだから、そういう自由な発想をするやつは「非国民」と見なされたのだろうと今となっては考える。
実際、その高校に謝罪に行ったところ、
「そんなんでわざわざ来たの?ごくろうさん」
みたいな対応で終わった。
ただ、すごいなと思ったのは私の両親だった。
私のそういった、同調圧力を読まずに取った行動に全面的な協力を惜しまなかったのだった。
そうして、私は大学受験浪人ならぬ、高校受験浪人をするに至った。
高校浪人は、それはそれで比較的楽しかったように思う。
意外にも高校浪人する人間というのは結構いるもので、片道1時間半かけて通っていた予備校には2、30人ほど生徒がいたように思う。
自分は高校生ではない、来年も落ちたらどうしよう、など不安はあったが、同じ仲間たちがいて、人と違う道を選んだ自分にある種の誇らしさみたいなものもあった。
次の年、念願の有名私立高校に入学できたが、そこから見事なまでの転落人生がはじまった。
ほぼ全寮制の男子校。
進学校とはいえ、やらないやつはどこに行ってもやらない。
他人より1年以上余計に時間をかけて入学したため、入学時の成績はトップクラスだったが、教育熱心な親元を離れたのをよいことに私は文字通り一切勉強をしなくなった。
悪友たちと戯れて過ごした3年間は何物にも代えがたいほどに楽しい時間だったが、学年も3年となり、大学受験がいよいよ目の前に迫った時、私の成績は地に落ちていた。
全国模試を受けると偏差値30。
校内偏差値に至っては19と、偏差値に10代があることをはじめて知った。
両親は相変わらずなので、Fラン大学の志望など決して許さなかった。
現実を知らない私は担任に「(有名私立大学)W大に行きたい」と言ったら爆笑された。
「お前の成績だと…、2浪…いや、3浪は覚悟しないと難しいだろうな…」
ここに来て、私は、周囲が必死に勉強しているとき、自分がどれほど遊び回っていたのかを自覚した。
しかし、それでも自分にはまだ可能性があると信じていた。
当時、ある有名予備校の古文の講師かなんかの人で、元暴走族だったが、女に振られた腹いせに4ヶ月の受験勉強で有名大学に合格したという本を愛読していた。
自分もその人のように寝ずに勉強すれば、有名大学に短期間で合格すると信じていた。
しかし、そんなのはファンタジーだったことを数年後に私は知る。
(一般人がこういった特殊なケースを真に受けて触発されるべきでないという教訓は、この後数年にわたる苦しみを経て、私の信念となった)
そもそも、入学直後から勉強を絶っていたため、高1の内容からやり直さなくてはならないのに、周りは受験対策の高度なことばかりしていて、孤立感もハンパなかった。
もちろん受験は失敗。
普通の予備校では到底逆転できないだろうと、当時受験生にスパルタ式で勉強を強制することで有名だった、東京の両国にあった予備校に入塾することにした(今は倒産して実在していないらしい)。
そこはバカ息子をなんとか医者にしようという医者の息子にターゲットをしぼり、年間300万という法外な学費でもって医学部を受験させるための予備校であったが、文系コースも用意されており、私はそこに入塾することになった。
(医者でもないのに私をそんな高額な予備校に入れてくれたという点において、親に申し訳ないと思いつつ、親の執念も相当だったなと感心する)
そこは噂通りのヤバさを誇っており、朝は軍歌のような歌で目覚めさせられ、通学も制限時間が決まっている(両国にあることを文字って通称「牢獄予備校」とも言われていた)。
外出は週に1回、週末の1時間だけ許されるが、それ以外は、自室に閉じこもることを強要される。
私の入ったところは違ったが、近隣にあった別の寮に至っては、周囲を有刺鉄線で囲まれていた。
途中、失踪する者や授業の最中に発狂して壁を蹴破る者など、精神状態に異常をきたす者が続出したが、休憩時間になると、学校の周りをひたすら走り回っているやつなど奇人変人の類もおり、慣れればそれなりに楽しさもあった。
そんな環境に1年身を置き、私はやっと人並みの成績(つまり偏差値50、つまり有名大学にはまだまだ及ばない)ところまでこぎつけた。
その年の受験は懲りずにW大の全学部(理系学部含め)を受験するという奇行に走ったが、もちろんどこにも引っかからずに2年目に突入した。
2年目はキツかった。
予備校は普通のところに通うことにしたのだが、特に寮とかもなかったし、生来、あまり自分から人と交流を求めない方なので仲間ができなかった。
結果、毎日アパートと予備校を行き来するだけで、1日誰とも話をしない、気がつけば1週間誰ともしゃべっていない、みたいな生活となった。
人は社会的動物というがそれは間違いない。
人との交流が断絶した私の精神は次第に荒廃し、今度は私が発狂して壁でもぶち壊したくなるような状態に陥った。
そうして、救いの道を仏に求め始め、いよいよ受験シーズン到来となったとき、私は両親に
「俺はK澤大学の仏教学部に行く(偏差値30)」
と宣言した。
両親の驚愕ぶりは想像に難くないだろう。
これまで、家1軒建つかくらいの学費を投入したバカ息子が、ここに来ていよいよ狂ったか、すべてをひっくり返して出家すると言いだした。
本気で止められた。
結局その年、W大の体育学部に合格。
そして、記念受験で受けた私学の雄としてW大と双璧をなすK大の超難関学部に合格するというまさかの展開となった。(入試科目が英語と論文だけというのが功を奏した。詳細を記載しなかったが、浪人生活中、私は英語しか勉強しないという極めてリスキーな賭けをしていた)
その後、親からは「体育学部なんて行って、お前はどうするんだ。頼むからK大にしてくれ」と泣きつかれ、そのままK大に進学。
私の地獄の浪人生活は幕を閉じたのだった。
…しかし、目的もなく入学した私学の雄、周囲と私との間には、もともとのスペックに落差がありすぎて、私の大学生活はそれまで以上に地獄の様相を呈したのであるが、それはまたいつかの機会に記述しようと思う。
これがほろにがき、などという生ぬるい言葉では表せない、苦虫を噛み潰したような私の青春の記憶である…